前エントリの続き

参照http://d.hatena.ne.jp/kanou/20041201#p3

小林氏は、田原総一郎氏が「2ちゃんねる」を見て「世論が変わる」と思ったということを挙げて、「驚いたな、こりゃ!」と煽ってみる。そして、「わしに言わせれば、ネットは『便所の落書き』である。しかも己れのクソで書いた落書きである。」「インターネットも世論も、どっちも私心の世界である。世論調査など公心なき意見の確認にすぎない。」と述べ、結論に入る。


※日本社会は急速に「ネット思考」と「短絡世論」に落ちていっている。ネットだのチャットだのは、異常者の共同体だと思え。大人たちよ、少年少女を、意識下の迷路から救い出せ!
(新ゴーマニズム宣言第二百十章「女児殺人・ネット思考と化す世論」より。一部加納氏による要約とその要約を私が斜線表現を太字表現に変更した部分あり。なお、※印以降は新ゴーマニズム宣言第二百十章原文ママ。)

この小林よしのりの文章の解釈を加納氏はこう説明する

これは如何に読むべきだろうか?いくら自分勝手な私でも、「思え」という語だけで小林氏は断じていないとは言わない。けれども、どうだろう。私の強調した箇所を見て欲しい。感情論を前提(「驚いたな、こりゃ!」)とし、一般論ではない(「わしに言わせれば」)ことを断った上で、「ネットは『便所の落書き』である。しかも己れのクソで書いた落書きである。」と断じているのだ。むろん、それでは公的な、つまり一般的普遍的な意見とはなり得ないから、結論部には「思え」という、一般化できはしないが覚悟を促す記述があるのではないか?

文脈という。例によってgoo辞書を引けば、1として「文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト。」とあり、2として「一般に、すじみち・脈絡。また、ある事柄の背景や周辺の状況。」とある。私は「文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。」を指摘し、「すじみち・脈絡。また、ある事柄の背景や周辺の状況。」も指摘した。恣意的な解釈ではない文脈の読み方を述べたつもりだし、このような前提のもとでは同様の結論しか導き出せないはずだが、如何だろうか?こば氏。
(undercooled 12/1より)

この解釈からは小林よしのりが一般論では無く感情論を前提とした上で「ネットは『便所の落書き』である。しかも己れのクソで書いた落書きである。」と主張しているのは良く分かります。この事から

「日本社会は急速に『ネット思考』と『短絡世論』に落ちていっている。(少なくとも小林よしのり的には)」→「これはヤバイ流れだ!。(少なくとも小林よしのり的には)」→「なのでネットは(全体ではないけれども、)異常者の共同体と覚悟するする必要がある!。(少なくとも小林よしのり的には)」
(加納氏の意見を元に小林よしのりの主張を私なりに分かりやすい形にしたもの。決定的に間違っている部分、足りない部分があればご指摘下さい。)

という加納氏のように「思え」という表現を解釈する事も確かに可能です。加納氏はこの理由を

むろん、それでは公的な、つまり一般的普遍的な意見とはなり得ないから、結論部には「思え」という、一般化できはしないが覚悟を促す記述があるのではないか?
(undercooled 12/1より)

と説明しておられます。


しかしそれは小林よしのりが「ネット全体を指しているワケではない」という説明としてはやや弱いのではないかと思います。まず前述した「加納氏の意見を元に小林よしのりの主張を私なりに分かりやすく解釈したもの」を基にして私の解釈を分かりやすく解説すると

「日本社会は急速に『ネット思考』と『短絡世論』に落ちていっている。(少なくとも小林よしのり的には)」→「すでにネット(全体)は毒されている。(少なくとも小林よしのり的には)」→「なのでネット(全体)を見たら異常者の共同体と思え!。(少なくとも小林よしのり的には)」
(私の考えを簡潔に示したもの)

何故このような違いが生まれたのか?それは私と加納氏の文脈の取り方に大きな違いがあると思います。


加納氏は

「感情論を前提している」→「つまりこれは一般化できない意見」→「なので文脈的に『思え』という記述は覚悟を促す記述である」
(加納氏の文脈の解釈を私ができるだけ簡潔にまとめたもの。決定的に間違っている部分、足りない部分があればご指摘下さい。)

という風に解釈しておられますが私の解釈は違います。私のこの部分の解釈は

「感情論を前提としている」→「つまりこれは小林よしのり個人の感情論」→「このことからはこの文章が小林よしのりの感情論である事が分かるだけ。」→「なので文脈的に『思え』という表現は特に覚悟を促す記述では無い。」→「なお、その感情論によるネットとはネット全体を指している。」
(私の考えを簡潔に示したもの)

という解釈です。
ただこれだけで見た場合、小林よしのりがネット全体を指しているというのはやや強引な解釈になるので、補足しておきます。第二百十章内で描かれているネットは、いわゆる匿名性に隠れている「ぶっちまけ族」のみで、それ以外のネット利用者(例えば本名や顔を晒して覚悟を決めて言論を行っている人達)が一切描かれておらず、彼らに対するフォローも全く無い事から小林よしのりはネットの人間を全員匿名性に隠れた「ぶちまけ族」であるとひとくくりにして考えていると考えられます。


というのが私の反論なのですが、やはり散々指摘されている「恣意的な解釈で文脈を読んでいる」ような気がどこかであります。私は自分の文章を客観的に読む事が苦手なので、自分では判断できないので、そこは加納氏によって判断して頂きたいと思います。当然「恣意的な解釈での文脈の読み方」をしていたらこの反論は全く無意味な反論となり、私は加納氏に論破された事になり、必然的に11/27日の日記の「ネット全体を指している事から的外れな意見には違い無いですが。」という補記は不適切な補記という事になるので、修正さして頂きます。


補足・何故最後のような結論になるかと言うと、私は加納氏の論理を「恣意的な解釈ではない文脈の読み方」で読まれた文章だと認めていて、加納氏の論理をその通りだと思います*1。しかし文章というのは「恣意的な解釈ではない文脈の読み方」をしたとしても1つの意味以外にも解釈できるものだと思うので、私なりの「恣意的な解釈ではない文脈の読み方」をした結果このような読み方も可能だという事を主張したつもりです。しかし自分では「恣意的な解釈ではない文脈の読み方」をしたかどうか自信が無いので、物事をかなり客観的に見れる(と思われる)*2加納氏によって判断して頂きたいと思った次第であります。

*1:ただ本文章においてできるだけ簡潔取り出したものは何処か抜け落ちている気がします。私は引用が下手です。

*2:根拠はと今まで議論してきた結果